「今日ブログの更新お願いしてもいい?」
「何を書けばいいですか?」
「なんでもいいよ」
なんでも、というのは自由度が高いようでその分私を迷わせる言葉だ。ともかくキーボードをカタカタする次第である。
少し考えてみて、今日はかつて辞められた2人の職員さんについて思い出しつつその時々の自分についてぼんやり書き出してみようと思う。
1人は、私の母と雰囲気が似ている方だった。単純に顔のつくりがそうというのもあるし、はきはきとした声や明快な言葉選びもそうという感じがした。
私は母と折り合いが悪いため、実は直感でその職員さんが苦手になりそうな気がした(!)が、案外そういうわけでもなく世間話から家庭の話といったデリケートな相談もさせていただくような関係になっていた。
こちらのことをどう思ってらしたのかはよくわからないけれど、珍しく信頼していた。
通所するようになってから少しの私はかなり精神が不安定で、いろいろと本当につらい時期があった。その頃も相談に乗ってもらっていた。
今もそうだが、前向きになったり後ろ向きになったりしつつも頑張れたのもそういった周りの人たちのおかげであるところがある(今更ながらありがとうございました)。
急にその職員さんが辞められて端的に悲しかったのだけれど、体調を崩されたというのだから仕方ない。
お別れの挨拶はできなかったものの、継続して自分なりに頑張っていくことで何かにつながるのだろう。何か、とはなんだろうか。
出会いもあれば別れもあるし、その選択は自分でできるものとできないものがあるというのが楽だったりつらかったりする。自動的につながったり切れたりこちらから関わったり遮断したりと忙しい。
そういうところがなんとなく苦手で人づきあいがかなりこわい。私は予想できないことが心から嫌いなのだ。どうして?
あ、予想外に辞めた最初の職員さんが嫌いでちゃんと事前に言ってくれた職員さんは嫌いじゃないとかそういう話ではないです。形はどうであれ淋しいものは淋しいよ、つまりどちらも。
あーいや予想外かどうかより失うものがどんな質なのかによるんだろうか。質ってなんだろう。なんだと思います?
もう1人は、先ほどの方とは全く(?)違うタイプの方だった。穏やかで慎ましやかというか。適当なこと言っててすみません、他者紹介が圧倒的に下手なのだ。
人見知りなので誰かを信頼することがあまりなく、連続することもさらに珍しい。何をいきなり言ってるんだろうね。
ちなみに母とも全く違うタイプでもあって、残念ながらあの人から母性を感じたことはない私にとって「お母さんってこんな感じなのかな」なんて思っていた。
返ってくる言葉の種類はもちろん違うが、その職員さんとも世間話や何らかの相談に乗ってもらうなどの関係になっていた。
ある時、ひとつの物事が頭にまとわりついて支配されかけていた。簡単に心が折れかけている自分を認識して焦ったり困ったり勝手につらくなっていた。
そんな時に辞められると聞いて動揺してしまった。お別れする日にあまり眠れず判断力が落ちていたらしく、当日は異常に泣いてしまった。様々な話をしているうちにまた泣いてしまって自分でもちょっとびっくりした。
いい時間になってしまって
「私■■さんに話したいことまだいっぱいあった気がする」
と言ったら
「手紙書いてくれたらいいよ」
と答えてくれた。それからずっと書こう書こうと思いつつ、その頃気にかかって仕方なかった問題を受容出来たりできなくなったり別の問題が発生したりがあって、結局かなりの月日が流れてしまった。
手紙ではないけれど、ここで(辞められてから長いのでここを見ていない可能性が高いものの)その代わりにさせてほしいなと思う。
私は予想できないことが嫌いだ、と言った。まぁそんな人はどこにでもいるだろう。でも私の私のこの感じは私唯一のものだと信じて疑わない。
この人生を歩んでこの価値観になった私はひとりだけなので。それだってみんなそうだろう。一気に普遍化する。それでも私は私だね。
ここのところどうも予想外の事態ばかり起きる。人生ままならないな。いい刺激として働いてくれてるっぽいのでまだいいかもしれない。詳しく書いてみようかなと思ったけれどあまりにもプライベートな話題すぎるのでそこは割愛。
予定をきれいになぞっていくのが好き。予定を崩されるとなんとも言えない不快感が生まれる。
発達障害の特性として自分では理解しているつもりだけど、これって説明しても大抵「(多かれ少なかれ)みんなそうだよ」みたいな返答がある(簡易すぎるけど勝手に普遍化するんじゃねぇに近い)。
わかりあえねぇ。人と人の心が通じ合うなんてあるのかどうかわからないと思い(もしくは、気分によって一切ないと断定し)つつ信頼関係を結んだ気になるってどういうことなんだう。
感覚で掴んで頭で考えないみたいなのは人によっちゃ楽なのかもしれないけど、少なくとも私はどうも苦手だ。でも人間を考えて型にはめようとするなんてそれはだいぶおこがましいことなんじゃないか、とも思う。
要は自分のやりたい方法で人づきあいをするのは向かないというか、もう少しうまくやれるんじゃないか、という。感覚に反した言動をしてみる、というと聞こえがちょっと悪すぎる。うそつきみたいで。みなさんはどうしているんでしょうね。
今の私はとにかく自分が最善と信じたことをやっていくことに関心が向いている。
継続して自分なりに頑張っていくことで何につながるのかわからなくても、わかるわからないやあるないなんて些末な問題に感じられてきている。あぁ、これが感覚で掴もうとするってことなのかな。なんだか私じゃないみたいだ。
働きましょうねー。おわり

